東の京都・東金

板倉公三代の物語

東金(上宿・谷・岩崎・新宿・田間・ニ又)は明治まで200年にわたって、板倉重昌を藩祖とする福島藩(現福島市)の配下にありました。
重昌は慶長19年(1614) 徳川家康おつきの家来として東金に来訪しています。
 
重昌の父勝重は慶長6年(1601)〜元和6年(1620)まで、重昌の兄重宗は元和6年から承応3年(1654)までの半世紀、父子で京都所司代職を勤めました。
 
重昌の妹の嫁ぎ先の義母は「秀忠の乳母は天下にこの女性しかいない」と家康自ら豊臣秀吉に懇願したと伝わる大姥局です。
妹の息女(姪)の夫、能勢頼之の妹は家康・秀忠・家光(大納言)の宿泊所であった「東金御殿」を拝領し、後春日局の没後の大奥第一人者となった近江局です。
 
重昌の子息重矩は老中職を寛文5年(1665)〜寛文8年(1668)・寛文10年(1670)〜延宝元年(1674)、並びに京都所司代職を寛文8年(1668)から寛文10年(1670)まで勤め寛文11年(1671)東金を拝領した幕府の重鎮でした。
 
尚、板倉家の家訓書『板倉政要』はテレビ映画で有名な『名奉行大岡越前』のモデルとされ、「舟は水があるから浮き、進むことが出来る」と藩主と領民を舟と水に例え、国替えの折は同行する領民の選考基準を地位や縁故、また金銭ではなく唯、親孝行とし、絶えず善政を施したといいます。
 
 

火正神社(かしょうじんじゃ)
元禄11年(1698年)1月28日、板倉重寛により創建された神社。 神輿の屋根についている左巴紋(ひだりともえもん)が「板倉家」の家紋。 幕末維新の際、譜代大名である板倉家は福島藩を治めていましたが、戊辰戦争では奥羽越列藩同盟に加わり新政府軍と戦って降伏。 明治新政府の厳しい追求を逃れ、いつの日か「板倉家が賊軍とされた過ちを正さん」とする思いを隠して、過正を火正としたのではないか、という説もあります。
隔年で春に祭礼が行われます。ちなみに平成31年で祭暦321年です。

板倉家より東金に「京文化」が伝えられた、といわれ、東金市内の随所に古の京を感じる文化の名残があるのです。